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SNS上「読書文化のマチズモ」→「読書はマッチョ」の時系列を簡単にまとめました

SNSは議論に向かない場だととっくに知っているくせして右から左へ話題を無意味に転がして飽きない子羊ちゃんたちの空疎な闘争。今日も今日とて『現代思想9月号』をめぐって突如勃発した謎の「読書はマッチョ」空転論争を、不肖「読書文化のマチズモ」by『ハンチバック』製造責任者の私の手で簡潔にまとめておきます。

あくまでも私が観測した範囲の時系列、主要ポストです。

https://x.com/konoy541/status/1828919522579161416

元の元は私(市川沙央)のインタビュー記事が抜粋されたポストでしたね。で、

https://x.com/issaku14/status/1829335428765532344

この引用ポストから「読書とはマッチョ」という言葉が広まっていきました。(広がりの個々の枝葉は「読書」「マッチョ」でSNSを検索して掴んでみてください)

SNSの人々の愚かなところは『現代思想9月号』の元テクストを読みもしないで何かすぐ言いたがるところです。まともな言論の進展を願って元テクストを引用いたします。該当箇所を長めに引用しますが(引用が長すぎて問題ありましたらご連絡ください)、Kindleでもすぐ買えますから全文お読みになっていただくことを強く推奨します。

 読書というものについて書く時、問答無用で本を薦めることはできない。なぜなら本というものはマッチョなものだからである。ということを、私は書評家や評論家として仕事して知ることになった。本は、目を使い、お金を使い、時間を使う。なによりも読書体力とでも言うべき ―― 習慣によって培われた筋肉を使う。たまたま幼少期に本を読む習慣をつけられていたり、性格や資質に合っていたりして、読書に苦がない人生を私は送ってきた。しかしそれは幸運だっただけだ。自分の努力で勝ち得たものではないし、生まれ持った性質と環境に合っていただけなのだ。大人になると、そう痛感する。本を読むといいよ、なんて、他人に言えない。それは身体が健康で、教養を与えられてきた、運のいい人間の言うことだからだ。読書とはマッチョなものだ。バリアフリー化も途上である。それは市川沙央さんの『ハンチバック』が巻き起こした議論が意味するところだろう。
 だけど、こんなことを大前提として、自分が本によってしか救われることができなかったのもまた事実である。

 

「誰かの寂しさを言葉ですくいあげる」三宅香帆

ということで、『ハンチバック』の関連箇所を以下に引用します。(そもそもの『ハンチバック』の「読書文化のマチズモ」を知っている方もいらっしゃれば、知らない方もおられて話題がますます錯綜している感がありましたので)元原稿からのコピペなので異同があるかもしれないのですがすみません。Kindleの引用制限超えちゃって。ゲラからコピーすればいいんだけど手間。

厚みが4、5センチはある本を両手で押さえて没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に負荷をかける。私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、頁がめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、――五つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。曲がった首でかろうじて支える重い頭が頭痛を軋ませ、内臓を押し潰しながら屈曲した腰が前傾姿勢のせいで地球との綱引きに負けていく。紙の本を読むたびに私の背骨は少しずつ曲がっていくような気がする。

 

(中略)

 

本に苦しむせむしの怪物の姿など日本の健常者は想像もしたことがないのだろう。こちらは紙の本を一冊読むたび少しずつ背骨が潰れていく気がするというのに、紙の匂いが好き、とかページをめくる感触が好き、などと宣い電子書籍を貶める健常者は呑気でいい。Eテレのバリバラにもよく出演されていたE原さんは読書バリアフリーを訴えてらしたけど、心臓を悪くして先日亡くなられてしまった。ヘルパーにページをめくってもらわないと読書できない紙の本の不便を彼女はせつせつと語っていた。紙の匂いが、ページをめくる感触が、左手の中で減っていく残ページの緊張感が、などと文化的な香りのする言い回しを燻らせていれば済む健常者は呑気でいい。出版界は健常者優位主義(マチズモ)ですよ、と私はフォーラムに書き込んだ。軟弱を気取る文化系の皆さんが蛇蝎の如く憎むスポーツ界のほうが、よっぽどその一隅に障害者の活躍の場を用意しているじゃないですか。出版界が障害者に今までしてきたことと言えば、1975年に文芸作家の集まりが図書館の視覚障害者向けサービスに難癖を付けて潰した事件「愛のテープは違法事件」ね、ああいうのばかりじゃないですか。あれでどれだけ盲人の読書環境が停滞したかわかってるんでしょうか。フランスなどではとっくにテキストデータの提供が義務付けられているのに……。

 

『ハンチバック』市川沙央

 

ここでちょっと私的な感想です。:

「誰かの寂しさを言葉ですくいあげる」引用部分に関しては、健常性、経済性、習慣性(生育・教育環境)の指摘には大いに同意しつつ、個人的にはその気づきがあった時点でちゃんと声を上げたのか(氏の過去の著作の中にも類する言及があったのか)、または格差の是正に資する何らかの活動を始めていたのかということがじゃっかん気になりました。『ハンチバック』の当該部分との関連性、時系列がこの文章からは読み取れないので、それを含めて疑問を投げかけておきます(前後関係の情報緩募ゆるぼ〜)。……生意気なことを申し上げてしまっていたらすみません。

 

先日観たWEB講座で、「インターセクショナリティ」を早期から扱ってきた人たちが、「東大(総長)がインターセクショナリティと(入学式式辞で)言い出したらもうインターセクショナリティは終わり」とネガティブな意味で仰っていましたが(体制による取り込みであり、抵抗の無力化が図られているという主旨)、それと同じように考えるなら、書評家がこういう形で「読書とはマッチョなものだ」と言い出したら「読書文化のマチズモ」ももう終わりだろうと思います。

いや終わらせていただいてぜんぜん構わないんですよ。私は次へ行くので!

 

おまけ:

https://x.com/hazuma/status/1830664326111432722

こちらを受けたと思われる次のツイートで、

https://x.com/solar1964/status/1830727846219915336

>市川さんの『ハンチバック』にも、『赤毛のアン』シリーズの話がこっそり忍び込まされていて、そのあたりこそ彼女の読書の原風景なのではないかと思った。

と仰っていただいていますが私にとっての『赤毛のアン』シリーズ(アン・ブックス)はそれこそ、全集(山本容子装画のやつ)をデパートで一冊ずつ買ってくるというブルジョワの典型みたいな行動様式の中にある思い出なので……カナダ(本土)で関連グッズを買ってきたりね。つっても知ったこっちゃないですよねすみません……。しかし、『東京都同情塔』の「ホモ・ミゼラビリス」ではないですが、その一冊にすら辿り着くこともなく身を落としつづけるしかない人々がいないとは言えないこの現実世界で、マッチを擦って灯った火の中に「(誰もが)純粋に本を好きで読む子ども(だった)」の幻影を見ることは私にはできません。

経済的なアクセスの問題に対しては私もブックサンタに寄付するくらいしかできていませんが……。

 

おまけ 2:

ところで、現時点で、↑の話題に関連して私のいちばんラディカルな発言は、『文藝春秋2023年9月号』芥川賞受賞インタビューの以下引用の箇所ではないかと思います。これが芥川賞関連でもっとも公式的なインタビュー中の発言であるというコンテクスト込みで。

第169回芥川賞受賞者インタビュー 市川沙央「父は破廉恥さに激怒しました」 | 市川 沙央 | 文藝春秋 電子版

——読書だけでなく「書く」ことにマチズモを感じることもありますか?

 市川 これはあります。そもそも西洋由来の理性主義は、ものを考えて発信することを人間の基本としていますが、私はそれは人間の定義として狭すぎると思う。人間から生まれて人間の総体の一部を成すものは人間なんです。ものを考えなくても、喋れなくても、書けなくても。しかしこの社会は、読むこと、書くこと、話すことを基礎として出来上がっている。話せる人、書ける人の言葉が影響力を持ってしまう。だから重度心身障害者の大量虐殺のようなことが起きるんです。書くことの神聖視は理性主義を強化してしまう一面があるので、私は好きではありません。

 

第169回芥川賞受賞者インタビュー 市川沙央「父は破廉恥さに激怒しました」

 

私が「マチズモ」と言うときはいつも、古代国家スパルタで赤ん坊を選別し、戦士に育てる者だけを生かして虚弱児を穴に捨てていたイメージが浮かんでいます。

以上。

 

それでは皆さまよい読書ライフを〜!